必読!おすすめビジネス書のご紹介

ビジネス書、何を読むべきか悩みますよね。ランキング上位を買ってみても、案外学びにならなかったり。そんな思いから、おすすめの本の概要を書くことにしました。外資系戦略コンサルなどで勤務した私が、おすすめの本をご紹介します!参考になれば幸いです!

インビジブルエッジ(マーク・ブラキシル、ラルフ・エッカート)

知財は見えない。しかし、切れる」

知財がどのような歴史で始まり、広がり、使われてきたのか、そしてその威力、使いみちはどのようなものか、ということを豊富な事例で紹介。

知財の実務詳細ではなく、戦略的な知財の重要性を知る上で最良の1冊。ボストン・コンサルティング・グループコンサルタントを務めた2名による著書。

 

廃盤になっていて中古しか手に入りません。図書館でお借りするのが良いかと思います。

 

インビジブル・エッジ

 

 

目次

本書の目次です。とても面白い内容であり、(さすが、一流コンサルタントが書いたこともあり)目次だけで大体中身が予想できます。

 

蒸気機関産業革命はなぜ出現したか

失敗につぐ失敗……それでもジェームズ・ワットは蒸気機関をあきらめなかった。

「成功のあかつきには特許が取れる」それがワットと投資家の原動力だった。

産業革命と経済成長をもたらしたものは、知的財産の保護だったのだ。

インテル vs トロール知財をめぐる死闘

特許はイノベーションを促し、イノベーションは成長率を高める。

ICチップの巨人インテルは、巧妙な知財戦略で圧倒的シェアを確立した。

だが巨人の前に、ひとつの特許で一撃必殺を狙う「トロール」が立ちはだかった。

「サメ型企業」クアルコム

知財で稼ぐ企業は、つねにイノベーションし続けなければならない宿命を背負う。

あたかもサメが生存のために、つねに泳ぎ、餌を追い続けるがごとく……。

クアルコムは「サメ型企業」に変身し、莫大な特許収入を得ることに成功した。

P&Gのイノベーション・ネットワーク

剛腕社長の後を継いだアラン・ラフリーは、研究開発費を思い切って削減した。

イノベーションを捨てるのか?」誰もが失敗を予想する中、会社は見事に甦った。

P&Gは外部とのコラボレーションに再生の活路を見出したのだ。

ヒューレット・パッカードのコントロール戦略

保護なきイノベーションは慈善事業にすぎない

ヒューレット・パッカードはなぜプリンター事業で莫大な収益を上げ続けるのか?

ジレットはなぜドル紙幣を印刷するより高い利益率を維持できたのか?

持続的な競争優位を保つには、イノベーションの中核をがっちり保護することだ。

トヨタの成功はコラボレーション戦略にあり

オープン・イノベーションでパイを大きくする

他社と手を結べば無条件で利益が転がり込んでくるわけではない。

トヨタは「系列」との知財を含む連携を通じて、「改善」という最強のイノベーションを実現した。

一方、MPEGは「パテントプール」を通じて巨額の利益を叩き出している。

IBMに学ぶ単純化戦略――アーキテクチャがカギを握る

特許を自社で独占する戦略だけでも、他社とコラボする戦略だけでも上手くいかない。

最適解は、その両者の中間にあるはず。

それを学ぶ格好の事例が、IBMのパソコン事業の成功と失敗にある。

 

以下、一部抜粋です。

ライフサイクルマネジメントを知的財産保護の観点から見る

有能な知財マネジャーは、知的財産権による保護と製品のライフサイクル・マネジメントを組み合わせた高度な知財マネジメントを実践している。

 

その代表例は、やはりジレットに見ることができる。

同社は、キング・ジレットが取得した安全カミソリの特許が切れた直後の1921年夏に、改良型のカミソリを発売した。このとき旧製品を5ドルから1ドルに値下げし、新製品(もちろん特許で保護されている)を五ドルで売り出したのである。

この賢いプライシング戦略をジレットはその後一世紀近くにわたって採用してきた。値段に敏感な顧客には旧製品を割安に提供し、品質重視の顧客には高性能の新製品をやや高めに提供する「ライフサイクル・プライシング」である。この手法は、イノベーションを業績向上に結びつける有効な方法の一つとなっている。

本体と替刃戦略がよく言われるジレットだが、もちろんそれだけでは高シェアを長続きさせることはできない。その裏にはこのような工夫が合った。

 

 

ビジネス争いで転んでも、知財で転ばない

家庭用ビデオデッキを巡るソニーのベータマックスと日本ビクターのVHSのバトルを紹介しよう。このバトルはソニーの完全な敗北に終わったが、同社が転んでもただでは起きなかったことを知る人は少ない。

ソニーはガラスの家からサメに変貌を遂げ、自社製品が市場から姿を消したあとも、VHS製品を作るメーカーにライセンス供与して(私たちが調べた限りでは)巨額の利益を上げたのである。

同じようにクアルコムも、自身は欧州規格と競合するCDMA2000をサポートしていながら、欧州規格WCDMAについてもライセンス料収入を得ている。クアルコムは自社での製造からは手を引き、知財ライセンスを旧競合・旧顧客を含む多くの企業から得る方向を選び、それで成功した。

これらの例から、規格策定プロセスは製品市場では勝者総取りになるとしても、企業は保有する知財リスクヘッジできることがわかる。

たとえ規格争いで敗れても、サメに変身してリターンを確保するチャンスは残っている。

知財まで見ないと、本当の勝者はわからない。

 

 

 

知財収支の赤字克服がいかに困難かは、DVDプレーヤーのケースが雄弁に物語っている。

2003年まで、世界中のDVDプレーヤーの大半は中国で製造されていた。しかしその規格を握っているのは、フィリップス、ソニーIBM、タイムワーナーといった先進国企業である。

これらの企業はパテントプールを形成している。そのうちの一つはライセンス管理会社MPEG-LAによるもの。このほかに3C(ソニー、パイオニア、フィリップスだが、現在はLG電子が加わっている)などのコンソーシアムが存在する。これらの組織でDVDの主要技術をすべて押さえ、ライセンスを供与している。

だが多くの中国企業は特許を無視することを決め、勝手に製造し、欧米の量販店を中心に売りさばいた。チャイナ・プライスのせいでDVDプレーヤーの価格は急落し、300ドル前後だったのが、なんと60ドルまで下がってしまう。

特許権保有者が黙っているはずがない。彼らは当然ながらロイヤルティの支払いを要求した。

ロイヤルティはプレーヤー1台当たり14~20ドルと見込まれ、特許権保有者の間で分配される。現時点ではMPEG-LAが2.50ドル、3Cが5ドル、6Cが4ドル、トムソンが1ドルというところらしい。

無数の中国メーカーからロイヤルティを徴収するのがむずかしい場合には、別の戦術がとられている。

たとえばDVDに関して最も高度な特許を保有し、したがって違法なプレーヤーの排除を強硬に要求しているフィリップスがそうだ。同社は中国メーカーを直接相手にしても埒があかないため、それを売りさばいている欧米の小売企業を糾弾する戦法に出た。

特許法では、使用許諾を得ていない違法コピーを製造するだけでなく、販売、輸入、使用しても罪に問われる。つまり製造者から販売者、エンドユーザーにいたるまであらゆる関係者が、特許権侵害で訴えられたら弱い立場になるわけだ。フィリップスはここを賢く突き、最も影響力の強い大手小売企業に圧力をかけた。

小売企業にしてみれば、違法な品物を売るだけで特許権侵害に問われるとは、寝耳に水の出来事だっただろう。ここで対応を誤ると、コピー製品の大量在庫を抱えて立ち往生することになりかねない。こうした危険性を察知したウォルマートを始めとする小売企業は、仕入れ方針を変更する。そして、正規のライセンスを受けたメーカー、とくに台湾メーカーから仕入れるようになった。行き場を失った中国メーカーは大打撃を受ける。同国のDVDメーカー500社のうち350社までが一年以内に姿を消した。

それにしても、ほとんどのメーカーがロイヤルティを払っているというのに、なぜ中国企業は頑として払わないのだろうか。答は簡単である。異常な安値で売っているため、ロイヤルティを払うゆとりがどこにもない。特許権使用料は売値の30%に達しているから、DVDプレーヤーの単価を60ドルとして計算すると、中国メーカーの利益が一台当たり10ドルだったとすれば、ロイヤルティを払えば利益は1ドルを割り込んでしまう。

しかも彼らは、自らの知財で取引することもできない。台湾メーカーの場合は独自技術を持っているので、コンソーシアムとクロスライセンス契約を結ぶという手が使える。すると全体としてみれば、台湾メーカーのコストは中国メーカーより低いことになる。

別の言い方をすれば、知財コストを含めたすべてのコスト要因を考えた場合、中国はローコスト・メーカーであっても、ローコスト・サプライヤーとはならない。

こうして中国は、知財を持っていなかったがために、DVD産業をそっくり失ったのだった。

 

研究部門、知財部門はコストセンターではない

たくさんの企業が、「作ったものを売る」のがあるべき姿だと思い込んでいて、知財の価値を台無しにしている。

自ら作らずライセンス料収入を得る方が大きな利益を見込めるケースも、ままあるはずだ。しかし、自社の特許を使用したコストは利益計算にも、PLにも計上されない。

しかも非効率はそれだけにとどまらない。すでに述べたように、製造に必要な知財すべてをカバーしていない大企業は、他社とクロスライセンス契約を結ぶことが多い。この「知財の物々交換」のコストは膨大な額に達することが多いが、これもまた帳簿には表れない。このため、自社のイノベーション投資にはいったいどの程度のリターンがあるのかがわからない。また、製品の利益からライセンス料を差し引かないので、製品の利益率も正確には知らないことになる。

こうした会計慣行から、製造事業がプロフィットセンターと見なされるのに対し、研究開発やブランド構築などはコストセンターと見なされていることがわかる。しかし実際は、まったく逆である。部門間の振替価格の設定や企業間・国家間のリソース配分が不適切に行われたり、ダンピング問題に誤った決定が下されたりするのも、このためだ。

おかしなことに、買収を行った場合だけは例外的に知財が帳簿に登場する。会計ルールでは、A社がB社を買収した場合、B社の知財を評価して資産計上しなければならないと決められている。そして将来使われて収益を生んだとき、費用として計上されることになる。

知財に関するこの例外的に正確なルールはそれとして結構なことではあるが、そうなるとA社にとっては奇妙な事態になる。自社で開発した知財はいくらでも「ただ」で使えるが、B社から買った知財は高くつくことになる。となれば、コストに敏感なプロダクト・マネジャーは、他社の知財は使わないようにするだろう。これでは、自前主義がはびこるのもすこしも不思議ではない。

自社の知財を適切に調べれば、多くのことが期待できる。まず、イノベーションマーケティングはプロフィットセンターとして認識されるから、社内のパワーバランスが変わってくるだろう。

また、知財開発への投資が増えると期待できる。さらに製品の価格設定は大幅に変わるだろうし、自社で開発するか他社から技術を買うかの決定も、これまでとはちがってくるはずだ。手持ちの知財でライセンス料収入を得る方が効率的だとして、「作らない」という決定が下されることも大いにあり得る。

ソニーはVHSとベータマックスでの競争には破れたが、VHSから知財収入を得ることには成功した。知財による収入に、経営者はより敏感になるべきだ。

 

 

引用〜知財の歴史〜

国策としての知財保護

知財は現代の経済における主役の一つであり、国家の産業政策できわめて重大な位置を占めている。しかし経済学者が知的財産について論じるときは、ミクロ経済レベル(企業および産業レベル)に終始し、マクロ経済レベル(国家および国際レベル)で注目する人はほとんどいない。

知財関連法は、そもそも産業振興策の一環として制定されてきたのだが、先進国でその点が再認識されるようになったのは、ごく最近のことである。

最初の特許法は、1474年にベネツィアで制定された。トルコとの長い戦いで貿易支配力の大半を失ったベネツィアは、国際市場で再び優位に立つことを目的としてこの法律を定めた。貿易から発明・製造へと軸足を移すとの国家戦略の下、外国からすぐれた発明家や起業家を呼び込み、ベネツィアの産業活性化に一役買ってもらおう、という狙いである。

16世紀に入ると特許法は全ヨーロッパに拡がった。ドイツからベルギー、フランス、そしてイングランドへ。

イングランドでは史上初の体系的な特許制度が整備され、この制度が蒸気機関の発明に決定的な役割を果たしたことは、すでに第1章で述べたとおりである。同国の特許制度は、エリザベス一世の宰相バーリー卿が産業育成の手段として設計したもので、国王の税収の増大、雇用の拡大、国内産業の創出などが目的に掲げられていた。とは言え特許制度設立の最大の誘因となったのは、輸入をやめて国内で製造し(そうすれば雇用も利益も増える)、金の流出を防ぎたい、ということだった。いわゆる輸入代替である。

読者もよくご存知のように、イングランドはワットの蒸気機関を原動力に産業を発展させ、圧倒的な経済力を誇るにいたる。鉄鉱石(スウェーデンから輸入)も綿花(最初はインドから、後にはアメリカから輸入もなく、世界最高水準の賃金を払っていたにもかかわらず、同国は数々の新産業を興し、当時創出された富の大半を掌中に収めて、経済を支配した。

それにしても、天然資源に乏しいイングランドがなぜあれほどの隆盛を誇れたのだろうか。特許制度の整備によりイノベーションを奨励し、先行者利得を一段と強化したことが大きな原因だったと考えられる。

投資リターンが大きいとの見通しが立てば、資本は惜しみなく起業家に投じられることになる。こうしてニューコメンとワットも、織機の飛び骨を発明したジョン・ケイ(特許番号54211733ほか三件)も、紡績機を発明したリチャード・アークライト、ジェームズ・ハーグリーブズ、サミュエル・コンプトン(特許番号562-1738、931-1769、96211770)も、発明を試作する資金を得ることができた。そしてこうしたさまざまな発明が産業革命を形成し、イングランド労働生産性を劇的に向上させるにいたる。たとえば綿織物の価格は1986年には一重量ポンド当たり38シリングだったのが、1800年

には10シリングを下回っている。

第8章 中国は違法コピー大国から卒業できるか

こうした工業力を背景に、英国政府は自国のノウハウが他国に漏れたり、重要な発明が国外に流出するといったことがないよう、周到に対策を講じた。1780年代には輸出管理法を成立させ、織物技術の輸出を禁止している。当時はアメリカも含め特許法が整備されている国がほとんどなかったため、英国政府にしてみれば、発明を極秘にしておかないとすっかり盗まれてしまう恐れがあった。外国人が熟練労働者を引き抜いて技術を手に入れようと試みると、そうした行為を違法とする条項がさっそく設けられる、といった具合だった。同様に、生産設備の設計図の輸出も禁じられた。また外国人産業スパイが重要な生産施設に忍び込むのを防ぐため、工場は城砦よろしく高い壁で囲まれ、壁の上にはご丁寧に釘や鋭いガラスが植えられた。労働者は秘密厳守を宣誓させられ、工場見学にやってきた外国人は門前払いを喰わされた。

だが産業革命の秘密などというものは到底隠しおおせるものではなく、やがてこうした対策も役に立たなくなる。中でも創意工夫を発揮してイギリス人を出し抜いたのが、アメリカ人である。

1811年、ボストンの実業家フランシス・カボット・ローウェルはイングランドにやってきた。表向きは療養ということになっていたが、ほんとうの目的はカートライト織機の秘密を盗むことである。カートライト織機と言えば、英国産業最大級の発明だった。ローウェルは家族を伴って滞在し、本来の目的を隠すためにできる限りのことをした。金持ちの旅行らしくおおっぴらにあちこちを観光し、一流ホテルに泊まり、気前よく金を使う。しかしぬかりなく、当時の工業中心地ランカシャーやダービーシャーの織物業者と会う手はずも整えていた。

このエピソードの細部は記録に残っていないが、ローウェルがうまいこと工場見学に成功し、稼働中の織機を目撃したことはまちがいない。外国人立ち入り禁止の規則をどうにかすり抜けたようである。たぶん、織機を見ただけで設計まで盗めるはずがない、と考えられていたからだろう。事実、ある工場経営者は「非常に複雑な機械の場合、いくら見たところで模倣は困難だ」と言ったとされている。

だがこの工場経営者は、ローウェルの特技を知らなかった。ローウェルは一度見たものを細部にいたるまでけっして忘れない、写真のような記憶力の持ち主だったのである。彼は工場見学中に見たものを、自分の目で写真を撮るようにして、記憶に焼き付けた。2年後に帰国するとき、税関の役人はローウェルのスーツケースを二度もひっくり返したが、何もあやしいものは出て来なかったという。

ボストンに戻ったローウェルは、さっそく記憶に基づいて織機の模型を作る。そして、マサチルサムに最初の工場を、後には彼の名をつけられた同州ローウェルにも紡績工場を建てた。生産量はほとなく一日30マイルにも達する。そのうえ彼は議会に働きかけ、輸入綿織物に関税を課させることにも成功した。イギリスにとっては、まさに踏んだり蹴ったりである

中国は違法コピー大国から卒業できるか

ローウェルの産業スパイ行為は、当時のアメリカ人の「なんでもあり」精神の表れだったと言えよう。相互に合意した特許法が存在しないのだから、海賊行為もやって悪いとは言えない。世界の歴史に新参者として登場したアメリカは、悪びれもせずヨーロッパの最上の発明を貪欲にまねた。製造機械から、著作や芸術といった創造物まで、その対象はあらゆるものにわたる。合衆国憲法アメリカ国民に知的財産権を保障したが、その権利が外国人にはおよばなかったのは、

いま考えるとまったく皮肉と言わなければならない。

ヨーロッパの発明家、芸術家、作家の作品は、断りもなくアメリカで複製され、印刷され、販売され、権利の侵害だと抗議された。たとえばディケンズの『クリスマス・キャロル』はアメリカではたった6セントで売られたが、本家ロンドンではドル換算で2.5ドルもした。

こうした海賊行為に対する非難を浴びているのは、今日では言うまでもなく中国を始めとする新興市場国である。この点では歴史はまさに繰り返していると言えよう。なぜいけないのか、と彼らは言うにちがいない。後発の国としては、外国の技術を導入して大急ぎで経済を発展させたいし、願わくはただで導入したい。先進国の知財を無償で利用し、かつ自国の発明はがっちり保護できたら、どんな新興市場国でも成長は加速するだろう。たとえばアメリカの場合、アメリカ人は外国で特許をとれるのに、外国人はアメリカで特許を出願できなかった。そんなことが許されるならうまい話ではあるが、この種のフリーライドは長続きしない。知的財産権を無視する国をいつまでも放っておく貿易相手国はいないからである。

アメリカは国の発展段階でこそ外国人を特許から閉め出したが、やがてアメリカ経済が成長し貿易の重要性が高まってくると、法律は直ちに修正され、貿易相手国の基準を反映するものとなった。

1836年には、どの国の国民もアメリカで特許を取得できるようになっている。

国際的な知財ルールをすり抜けようとした国は、アメリカだけではない。オランダは、特許法がヨーロッパ全土に拡がるのを尻目に1869年に自国の法律を廃止したし、スイスにいたってはそもそも法律の制定を拒んだ。

この二つの小国はヨーロッパのフリーライダーとなり、隣国の発明をただで拝借する一方で、自国の発明はよその国でちゃっかり特許を取得し、ヨーロッパ市場に大いに売り込んだ。この戦略はしばらくの間機能した(とくにスイスはうまくやった)が、やがて他国からの圧力が高まり、やむなくルールに従う羽目に陥る。

1800年代には、今日知られているような国際貿易機関はまだ十分組織されておらず、国際紛争の多くは当事国同士の解決に委ねられていた。それでも何度か紛争を重ねるうちに多国間条約を結ぶ土壌が整い、そのうちいくつかは国際協定に発展する。

その一つが、工業所有権の保護に関するパリ条約である。この条約は、知的財産権の保護を正式に定めた初の国際的な取り決めで、1883年に発足した。

パリ条約では、すべての加盟国は、工業所有権の保護に関して自国民に与えている保護を他の加盟国の国民にも与えなければならない、としている(内国民待遇の原則)。

この条項によって、かつてのアメリカのように他国の発明に権利保護を与えない国は、自国の発明も同じように扱われることを覚悟しなければならなくなった。この条約で興味深いのは、加盟国はこれこれの知的財産権保護法を定めなければならない、といった規定は設けられていないことである。たとえばスイスとオランダはパリ条約に加盟したが、その時点では自国に特許法は整備されていなかった。

しかしその状況も長くは続かなかった。国際基準に沿った保護を与えるよう、アメリカなどの有力加盟国が圧力をかけたからである。アメリカが提案した第一回改正案は、より平等な待遇を実現すべく「発明者の国において特許による保護が得られない発明は、他の加盟国でも保護の対象から除外してよい」という条文を盛り込むものだった。この改正案が、特許法を持たないスイスとオランダを狙い撃ちしたことは明白である。この条文が追加されると、スイスやオランダの発明家は自国で特許を取らない限り、他国でも取れないことになる。

この改正はたちどころに功を奏した。スイスは二度にわたって法改正を行い、1888年に特許制度を発足させ、1907年には制度の拡充を図る。オランダも、43年前に放棄した特許法を1912年に復活させた。

今日では、知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS)がWTO協定に組み込まれ、WTOが実質的にこれを管轄している。したがって知的財産権の尊重は、世界の貿易の

仲間入りをするうえで欠かせない条件となった。いまやどの国も、この権利を無視するような暴挙はできない。開発途上国も、経過措置を適用されたうえで協定を実施することになっている。開発途上国にはより柔軟な知財法の制定を認めるべきではないかという議論は現在もあるが、2007年1月の時点では、WTOの全加盟国150カ国に対し、知的財産権保護に関する最低

基準の遵守が求められている。つまり加盟国は、手前勝手な知財法をつくるコストと世界の貿易から仲間はずれにされるコストとを天秤にかけなければならなくなった

 

 

以上です。長文失礼しました。

出典:

インビジブル・エッジ