外資コンサルによる必読ビジネス書のご紹介

ビジネス書、何を読むべきか悩みますよね。ランキング上位を買ってみても、案外学びにならなかったり。そんな思いから、おすすめの本の紹介と、その内容の概要を書くことにしました。戦略コンサルなどで勤務した私が、おすすめの本をご紹介します!

鄧小平(エズラ・ヴォーゲル)

鄧小平。名前は聞いたことあるけど、何をした人なんだろう?ということを知りませんでした。そこでこの本に出会い、読んでみたわけですが、結論から言うと、「必読書」だと思いました。

 

まさに、歴史というのはこうして学ぶべきだし、中国政府の考え方はここから産まれているのかということもわかってきます。

以前読んだ、キッシンジャーに関する本も同じような衝撃を受けましたがこんなに内容が濃く、かつ勉強になる本はなかなかないと思います。

 

とても長いので、ようやくというよりは考察になってしまいますが、一読いただけると嬉しいです。

現代中国の父 トウ小平(上)

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鄧小平は、10代から20代前半でフランスおよび中国において不遇な体験をした。勉強しに行ったフランスでは、政府の方針で奨学金が打ち切られ、学校にいけなくなり、帰国もできないという状況に陥った。そして数年して帰国後、国民党や日本軍との戦いを切り抜けた。

そこから、彼の意思の強さや胆力が生まれたと考えられる。

 

 

文化大革命の実務を不本意ながら行う中でも、毛沢東の逆鱗に触れないように細心の注意を払っていた。しかし、ささいなことで怒りを買い、死ぬかもしれない数年を過ごした。事実、長男は半身不随の怪我を負わされてしまった。

毛沢東時代は、1940年頃から1970年代まで、気に食わない派閥、人間は簡単に殺害するという政治が行われていた。共産党のナンバーツーになった人間も、ナンバーワンの毛沢東の怒りを被っただけで、一家が乗った飛行機が謎の墜落をしたりした。

そんな背景から、鄧小平は、寡黙で不用意な発言をしないという習慣を身に付けた。公式・非公式の場で常に緊張感を大切に、一言一句、無駄な発言をしないように気をつけた。

 

 

鄧小平は、すべての権力の座から外された不遇な時代、自宅に軟禁されながらも毎日庭を何周も歩き、毛沢東の権力をうまく使いながら、彼の失策を正していく作戦を考え続けた。

例えば、「毛沢東の凄いところは臨機応変に対応したことである。そのため彼の足元の政策は変えても問題なく、むしろ変えることが強みなのである」という解釈をした。こうすることで、毛沢東を尊ぶもの、憎むもの、恐れるものそれぞれを味方につけることができるようにした。

 

毛沢東の鄧に対する怒りが収まり、数年後に無事復権した後も、鄧小平は再度怒りを買うことがないように毛沢東本人の過去に掲げたスローガンを使い、うまく中身を変えて中国を立て直す方向を推進した。

それにより、毛は自分の考えと少し違うことがあっても、批判はしにくかった。しかし、これは一歩間違えば生命の危機になる位、危険な賭けであった。

少なくとも1975年まで、中国は完全なコネ人事であった。実力ではなく、有力な誰かの知り合いであることが全てであった。それによる弊害が多く見受けられたため、鄧小平は教育制度を整え、文化大革命で激減した知識層を増やし、実力で人事が決められる土台を作ろうとした。

 

しかし、先に教育制度、つまり人材の供給側に手をつけたことが、後の天安門事件を生むことになる。まだ党の中での支配力が弱かったことが、腐敗撲滅に動けなかった理由かもしれない。

 

 

鄧小平は実質の党のトップになった後、早急に軍隊を立て直した。ソ連の脅威が目前に迫っていたためである。多すぎる軍人、とくに老人を減らし、浮いた費用で最新の兵器を導入するという戦略であった。

そのために、400社の軍需会社の幹部全員を集め、一同で協力して政府の方針に従わせた。

この考え方が現在までの中国に続いているのだと思われる。国が進む方向にすべての民間企業も進んでいくというのが一党独裁政治の強みなのだと思う。

 

 

1978年の中国では、庶民はおろか、共産党幹部ですら、外国はダメなところ、資本主義は失敗であると思い込んでいた。

そこで鄧小平はその意識を変えるために高官数十名を海外に視察にいかせた。アメリカやフランスそして日本などの数十カ国を回った。そして、政治はともかくとして、経済においては資本主義の方が圧倒的に有利であることが身に染みてわかった。

 

ここでのポイントは、すでに人々から信頼されている重鎮幹部を連れて行ったことである。「民主主義の方が良いところがある」という、まさかそんなはずはないというような内容の報告を視察団はするはずであり、それを例えば若手がしたところで他の人は信じることをしない。

そのため、驚くような報告こそ、すでに尊敬を集めている老人幹部から言ってもらった方が良い。

 

この考え方は、例えば外部から新しい考え方をその会社に入れる時も同様であるように感じる。デジタルトランスフォーメーションをするときに、その部署の人が唱えていても影響力は小さいが、絶対に関係なさそうな老人の管理職がそれを言い始めたら全員が意識を変える可能性がある。

 

 

自由な庶民の声についてその良さをはじめは鄧小平も認めていた。

しかし、1976年の天安門の壁に描かれた民主主義に対する主張が日に日に激しさを増し、共産党に対する批判も多くなってきたことを受け、容認する発言をした3ヶ月後に鄧小平は一転して、壁への書き込みの禁止及び取り締まりを始めた。

このときの逮捕者は30人ほどだったが、その後の共産党の方針を決めたと言える。

 

1975年前後、中国の近代化を考えていた鄧小平は香港の目の前、今の深センに目をつけた。そこを経済特区にし、外資の金と力で発展させようと考えた。これはこのエリアの治安が悪く、かつ若者は香港に逃げるように去っていくと言うような事情があった。

この考えが奏功し、今の深センの大発展の元となった。

 

1980年、日本を初めて訪れた鄧小平を日本全体が大歓迎した。日本製鉄の稲山社長は君津製作所の技術供与をお願いされ、快く武漢の製鉄所に支援をした。

その時、競合になるのではないですかと言う問いに対しては、中国の市場が大きいので日本に影響は無い。助け合いだと説明した。

 

結局これが近年の日本の製鉄業界を苦しめ日本製鉄本体の経営危機に結びついている。日本から中国への技術供与はこのような戦略のない気持ちだけの事例が多く悲しくなる。

 

 

中国の共産党のような、選挙のない長期政権は独裁者か、長期展望に向けて集中する優秀なリーダーがその両方を生み出し得る。毛沢東は前者であり、鄧小平は後者である。1978年から89年の鄧小平時代が、その後の中国の大発展につながったと言える。

 

 

1989年の天安門事件では、学生側にリーダーがおらず、デモ解散の条件がなかったことが解決を難しくした。

加えて、海外のメディアが中国に入る規制が緩くなっていたことが、この事件は世界中に広く放映する理由となり、いまだに語り継がれる要因となっている。事実、それよりも圧倒的に悲惨であった文化大革命や、韓国における虐殺などはそこまで人々の記憶には残っていない。

 

この天安門事件は、教育に投資をした鄧小平が、その学生の出口である企業、政府の整理を10年間できていなかったことが大元の原因となったと考えられる。

高学歴の学生が行く就職先は結局無能な役人が仕切っている社会であり、学歴が高いだけでは優秀でも待遇も低い。そもそも就職できるかどうかが役人のコネで決まってしまうのである。それに大学生が起こり、120万人以上が天安門広場に集結をした。

そしてその対応をきっかけとして、鄧小平は失脚していった。

 

 

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以上です。

 

日本が中国の大躍進に多大な活躍をしたことは述べられていますが、天安門事件以降の共産党の立て直しの仮定で、「反日感情と愛国感情」をうまく使った共産党から、それをマイナスに転換されてしまっています。

日本政府、企業は、大量のリソースを中国が日本を潰すために使った、と考えると、当時のバブルに浮かれていた日本を憎まざるを得ない..と、一読者として思ってしまいました。

 

出典:

現代中国の父 トウ小平(上)

現代中国の父 トウ小平(下)